書店に行くと「マインドフルネス」という聞きなれないタイトルの本を見かけるようになりました。マインドフルネスは、精神疾患の分野で行われてきた従来の治療法(行動療法、認知療法)に続く新しい心理療法です。海外では、うつ病や不安障害の治療にマインドフルネスが活用され、成果を挙げていますが、日本ではまだまだこれからの治療法です。最先端のメンタルヘルス理論、マインドフルネスのエッセンスをご紹介します。
マインドフルネスという言葉はなんとなくふわっとした言葉ですよね。そこでまずこの言葉の定義を行いましょう。
マインドフルネスは、アルファベットでは「mindfulness」とつづります。「mind」の訳語はいろいろありますが、ひとまず「心」としておきましょう。「ful」は「満たされる」という意味。そして「ness」は状態や性質を表す言葉です。つまりマインドフルネスとは「心が満たされた状態」と定義できます。
マインドフルネスという言葉そのものには700年近い歴史があるといわれています。しかし、この言葉が現在のような広い市民権を得たのはつい最近のこと。1954年に出版された書籍『仏教瞑想の核心ーマインドフルネスに基づく精神修養』がきっかけとなりました。
この本ではマインドフルネスを「ありのままの注意」と定義しています。邪念や前例にとらわれることなく自分の状態を洞察し、その結果になんらの評価も加えないこと、これがマインドフルネスのもともとの意味なのです。
もっとも、単純に「ありのままの注意」と定義するだけでは、マインドフルネスの具体的な内容は少しも明らかになりません。そこで次の見出しでは仏教的マインドフルネスについてみていきましょう。
仏教的マインドフルネスには、次の4つの観察対象(四念処)があると考えられています。
(1)身念処(mindfulness of the body)
人間の身体に対するマインドフルネスです。呼吸や姿勢、寝る、起きる、食べるなどの日常動作を静かに見つめ、その状態への気づきを追求する概念です。
(2)受念処(mindfulness of feelings)
感情や感覚に対するマインドフルネスです。快感は快感として、不快感も不快なものとして、感情をダイレクトに受け取る気づきのことです。
(3)心念処(mindfulness of consciousness)
怒り、おそれ、憎しみ、落ち着きのなさ。こういった心の状態が自分に起きているという事実を、一切解釈することなく「ああ、いま自分は怒っているなあ」などと、ありのままに受け入れる気づきのことです。
(4)法念処(mindfulness of mental objects)
「法」とは仏教でいう「梵、ダルマ」のこと。人間のあらゆる欲望や自然の摂理についてブッダが説いた教えは多岐にわたりますが、そのすべてを網羅する言葉が「法」です。たとえば5つの煩悩(快楽、敵意、怠惰、後悔、不信)がその一例です。自分をありのままに観察し、心身に生じている法の状態に気づくことが「法念処」です。
四念処に共通しているのは、「ありのままの状態を観察すること」=気づき、そして「観察結果を一切評価しないこと」=非評価の2つです。
現代社会、とりわけビジネスシーンでメンタルケアなどに応用されるマインドフルネスは、実は上に述べたような仏教的内容そのままではありません。四念処に代表される仏教的マインドフルネスの考え方に、臨床心理学の成果もプラスした「心理療法としてのマインドフルネス」が、いま世界中の企業などで採用されているものなのです。
マインドフルネスを心理療法に応用して、精神疾患の患者に適用したのは、ジョン・カバットジンです。カバットジンは、日本の曹洞宗に代表される「座禅を重視する仏教思想」にこそマインドフルネスの基本理念があると考えています。実際、心理療法としてマインドフルネスが実践される場合には、具体的な施術として座禅や瞑想が行われます。
ここで一つの疑問が生じます。マインドフルネスは心の問題にアプローチするものなのに、なぜ座禅や瞑想という身体的活動を重視するのでしょうか。それは、心や脳といった漠然とした対象を直接認識するのが困難であるのに対して、身体感覚はより明瞭に認識しやすいからです。
たとえば歩行瞑想という瞑想法があります。ゆっくりと足をすりながら歩き、足裏の感覚を敏感に感じ取る動作を続けることで、瞑想状態に入る方法です。この方法は「身体への感受性を鋭く磨き上げていくことで、自己や他者の感情への気づきの力も高まる」という経験則に支えられています。
感覚を鋭敏にし、心身のいまある状態を観察すると、「いらだっている」「悲しんでいる」「おごっている」等々さまざまな気づきが得られます。心理療法としてのマインドフルネスの核心はここから始まります。
気づきで得た情報は、「良い」「悪い」「維持すべき」「改善すべき」といった評価を一切行ってはいけないのです。極論すれば、言語化すらしません。放置するのです。
その状態は鏡にたとえることができます。鏡に意志はありません。自分の前に立った物体を現実のままに映し出すだけで、「映っている」という言語化もしません。気づきで得た情報を評価しないとは、自分の心を鏡にするということなのです。これは、仏教で古来より行われている座禅や瞑想の極意そのものだといえるでしょう。
人は身体の活動を極端に停止したり(たとえば座禅)、一定の動きを延々と繰り返して瞑想状態に突入したり(たとえばヨガ)といったことを行うと、感受性が異常なまでに研ぎ澄まされていくことを体験します。その状態が高いレベルで維持されていくほどに、私たちは言葉を失っていきます。
はじめのうちは「座禅しているな、体を動かしているな」と言語化してしまうでしょう。しかし修練を積んでいくうちに、言葉を忘れ、ただひたすら座禅をしたり瞑想をしたりすることに集中できるようになります。
このとき、人間の体内では、副交感神経が優位になり、脈拍や呼吸のペースが下がっていきます。すると、たまっていたストレスがゆるゆると溶けていくのです。
また、身体の状態に気づき、言語化せずにありのままを受け入れるという体験は、自分が受けたストレスを「害悪」ではなく、ただの「状態」に書き換えてしまう効果も持っています。さらには、そのストレス源が第三者(たとえば職場の上司など)であった場合、第三者が自分に向けた悪意ある言動でさえ、非言語化し、無害化してしまう効果があるのです。
座禅や瞑想を活用したマインドフルネスは、ストレスに起因する精神疾患を治癒するだけでなく、人間のストレスそのものを無害化することも目指した心理療法なのです。
マインドフルネスが心理療法として実際の臨床現場で活用され始めたのは1990年代後半のことです。その後20年が経過し、多くの臨床研究が重ねられました。しかし、心理療法の性質との兼ね合いから、大規模で長期的な臨床試験はなかなか実践できないのが現実です。そのため、心理療法としてのマインドフルネスが保険適用されるまでにはまだまだ時間がかかるでしょう。
ただ、マインドフルネスの核心が「気づき(身体感覚を研ぎ澄ませてストレスの所在を明らかにする)」と「非評価(言語化を放棄することでストレスを無害化する)」というプロセスにあることさえ理解しておけば、たとえ自己流でもそれなりの効果が期待できます。最近ではマインドフルネスをわかりやすく解説した書籍も数多く出版されていますから、ぜひ参考にしてみてください。